県内最大の湖・諏訪湖に湧き出る温泉の歴史は古く
上諏訪駅前からは土器片や石斧(せきふ)などと一緒に硫化して黒くただれた藍が出土しており
すでに
縄文時代の人々が温泉を使っていたと思われている
そんな歴史の長い温泉地にても上社御射山穂屋祭にあわせ競馬好きの有志により
1901(明34)年頃から富士見村(現:長野県富士見町)で草競馬が開催されていたという
その後、競馬規則などが公布され馬券競馬ができるようになり
諏訪でも競馬会を結成し地方競馬の準備を始め
1923(大12)年:新設された富士見の競馬場で馬券の発売を伴う公式の競馬が行なわれるようになった
しかし
盛況を誇った富士見競馬場であったが
1927(昭和2)年:新地方競馬法の規則により馬場拡張が余儀なくされ
富士見村では拡張等の施設の工事資金に限界があり
当時、観光拡大のために競馬会誘致運動を強力に進めていた上諏訪町(現諏訪市)に馬場を移されることとなった
1934(昭9)年5月2日:上諏訪競馬場が竣工され(馬場:1周1000m、幅員:約20m)
同年5月16日:長野県畜産組合連合会主催により第一回上諏訪競馬(温泉競馬)が施行される
競馬開催中はかなりの賑わいであったようで、競馬場前には多くの売店が軒を連ね
また、郵便局の出張所も設けられて記念印が作られ使用された
<昭和13年春季・長野県畜産組合連合会主催・優勝馬投票証>
大陸での戦争が激化してくると、各地方で行なわれていた競馬も
軍馬資源保護法1939(昭14)年により「鍛錬馬競走」として行なわれるようになり
1940(昭15)年10月:諏訪競馬場でも鍛錬馬競走が行なわれ始めた
戦前の地方競馬は、その利益の一部も含めて軍馬の育成・確保に役立てるという趣旨から
県の畜産組合連合会(のち法律により馬匹組合連合会となる)などの主催により開催された
1944(昭19)年: 春季(鍛錬馬競走)からは長野県馬匹組合連合会主催にて開催される
戦後は自治体の財源確保が名目となり
地方競馬法改正で主催者は基本的に都道府県あるいは特別な災害を被った自治体とされ
1949(昭24)年4月:長野県が主催となり第一回県営競馬が開催され
同年11月:昭和22年の飯田市の大火の復興目的として飯田市主催による市営競馬が開催される
その後、競馬場の所在地である自治体の主催が認められるようになり
1951(昭26)年:諏訪市により市営競馬が開始される
競馬が行われたのは年2開催の6日間づつであり
その多くは春と秋の開催であるが
夏と秋や夏に集中して2回開くなど開催時期はまちまちであった
農耕馬を集めての開催であり
競馬用の訓練も調教も出来てない馬、スタート合図でもなかなか走らない馬もいたり
コーナーを曲がらず、そのまままっすぐ柵を跳び越えて走っていく馬もいたそうな
徐々に馬を集めることも困難となり、また赤字続きだったこと
ギャンブル性の強い競馬開催に市民が強い難色を示したこと等が要因で
1960(昭35)年8月:諏訪市による市営競馬競走を最後に幕を閉じる
旧競馬場敷地は総合運動場などとなり
今では
人々がその速さを競い合っている
長野県諏訪市清水町
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